自分が「いいな」と思ったほうに動き続ける。

自分へのクリスマスプレゼントにパソコンを買った。モニターと合わせて6万円もした。自分の年収が5万円なので赤字である。一週間ほど悩み抜いた。最初はノートパソコンにもタブレットにもなる2in1のSurfaceを買おうと思ったものの、最終的には用途に合わせてデスクトップに。食費一日150円の私がこんなにも高い買い物が出来たのは女神さま降臨によるものです。気軽に使ってくださいという一言をもらい、メンタル的にはすり減るほど悩みましたが、思い切って使ってみました。パソコンであればブログ更新も捗る。家に届くのが楽しみです。

自分が「いいな」と思ったほうに動き続ける。

上手に言葉にできる気がしないけれど、下手でもいいからとりあえず自分の最近思ったことを正直に出していこうと思う。「実験感覚」であれば自分のやることにも気持ちよくOK!が出せる。この前、自宅でシャワーを浴びていたら、ぶわっと「自分が『いいな』と思ったほうに動き続ける」という言葉が頭に降りてきた。人ってわりと心の底では、「こうしたい」と思っていることがあると思う。このこうしたいという感覚をいかに信じられるか。そこが焦点だと思う。でも、それがいろんな要因によってかき消されてしまう。「これしたい」をすると周りから変な目で見られるんじゃないか、とか。そう思って二の足を踏んでしまったりする。できれば自分が納得することをしたい。その時々に自分にとっての最もベストな選択をし続けることができれば、その道中に後悔の二文字はないと思う。結局、「自分がいいなと思った選択の積み重ね」がいい人生だと思う。

「何もしない」もDOである。

いい人生とは「やる」の積み重ねみたいなところがあると思うんだけど、一口にやると言っても、「何でもやる」ことが「真のやる」ではないと思う。なぜなら、「何もしない」ということもまた一つの「やる」だと思うからだ。自分の人生の中で辛かった時のことを思い返すと、あの頃は「ただやることだけ」に意義を感じていたなと思う。これは別に後悔ではない。「やった」からこそわかる結果だ。しかし、何でも闇雲にやればいいのかと言われると自分の答えはノーである。なぜなら、表面的にはどんなに「やっている」ように見えても、内実、心は死んでいるからだ。頑張りすぎると死ぬ。力を抜く。そうしたほうが心が生き生きとしてくる時もある。「しない」という選択を取るのにも勇気がいる。自分が本当にやりたいと思ったことなら、たとえ他人から見て、それが「何もしていない」ような状態であっても、それは結果的に「DO」だ。

Aの道に行きたい。しかし、Aの道に行くには仕事を辞めないといけない。でも、仕事を辞めるのはリスクがある。リスクがあるから、結果的に仕事を辞めずに安全なBの道を行く。けど、安全な道を選び続けている限り、「Aの道への行きたさ」が常につきまとう。そこであえて仕事を辞め、大切だと思っていたもの、生きるには必要だと思っていたものを手放し、Bの道へ行くと、「ああ、こんな世界もあるんだ」と気付ける。最近、楽な道と、楽になる道があるなと思った。楽な道は、本当はやりたいけど怖くてできないから惰性で選んだ道、楽になる道は怖いと思っていたことを突破する道。

他人の目線を気にしていると仕事をやり続けることを選んでしまう。表面的にはDOに見える。しかし、それは実際は行動していない。周囲からどう思われたとしても、自分が望んでいることなら何もしない道というのも立派すぎるくらいのDOだと自分は思う。真の行動とはそういうことだと思う。たとえば親の影響で働き続けることが美徳だという変な価値観を刷り込まれていると、本当はやめて別の道へ行きたいと思った時の足かせになる。仕事を辞めるなと言われているから、辞めようにも辞められない。そうなると自分の「いいな」が押し殺される。どんどん辛くなっていっちゃう。瞬間瞬間、自分が望んでいる行動ができるかどうか。ここが肝なのかなと思う。

アイデンティティーという魂。

これはなんとなく思ったことなんだけど、アイデンティティーみたいなものって実は魂みたいなものでもあるのではないかなと思う。魂は不変的だ。過去世からの印象じゃないけど、実は魂の行きたい道はずっと同じだと思う。自分自身が「いいな」と思うことって昔からそんなに変わっていないと思う。自分だけかもしれないけど、悪いと思っていたことが良い、良いと思っていたことが悪いと感じられるようになったことってあまりない。「これ良いな」と思えるアンテナみたいなものって、いくつになっても変わらないと思うし、環境が変わったとしても不変だと思う。そのアンテナをいかに信じられるか。いとも簡単に見失ってしまうそれを常に意識し続けられるか。わりとすぐに翻弄されてしまう。

スペック志向を捨てる。

物って選んでる時が結構楽しい。パソコンを選んでいる時も時間を忘れてのめり込み続けてしまった。蛇足だけど、うちの父もそんな人だったから遺伝子的なあれなのかもしれない。物は買ったら買ったで、たとえばパソコンだったらいじくるのも楽しいから、一概には言えないんだけど、それにしても本当に楽しいことをやっている時っていいなと思う。早起きしちゃったりする。何もないと寝続けちゃうけど、あれ調べたいみたいな欲求があると、寝不足も苦痛じゃなくなる。

その過程で気付いたのが、わりと物を選ぶ時って全力でスペック志向になってしまうこと。実用的かどうかばかり考えちゃう。でも、スペックを一番に考えているとどうしても上には上があるから際限がない。お金がある限り、自分では持て余すような高スペックを狙っちゃう。自分の場合はパソコンだけど、実はそんなにゲームもしないし、軽く動画を観たりネットサーフィンをするくらい。だったら、スペックの変わりにデザインも求めたい。多少、実用的じゃなくても惹かれるものってある。そっちを選ぶと後悔しない。スペックがいいに越したことはないじゃん感覚で選ぶと、「実は向こうのほうのデザインに惹かれてたんだよなあ」と後になって思ったりしちゃう。

「みんな」という概念を捨てる。

シャム猫よりも野良猫に愛着を持つかもしれない。シャム猫はきれいだ。でも、それはみんながきれいだと言っているからきれいだと思ってしまうだけなんじゃないのなかと思ったりする。美しいと言われるものに自分は結構懐疑的だ。人が何かを見て、美しいと言っている。自分は同じものを見て、同じように美しいと感じることが少ない。ひねくれているのかもしれないが、みんなが揃いも揃って美しいと言っているものは、「みんなが美しいと言っているから美しいということになっちゃってるだけ」なのかなと思う。自分が本当に愛着を持つことになるのはシャム猫ではなく、偶然出会った野良猫かもしれない。結局、思い入れの量なのかなとも思う。

服もそう。みんながかっこいい、かわいいというものを着るようになる。自分は他に着たいものがある。でも、みんなにいいと思われたいから、みんなが褒めている服を着る。もしくは、自分の好きを取り入れつつ流行りのトレンドを取り入れたりする。そもそもでデザインとは見られるためにあると言われてしまったら終わりなんだけど、何事においても「みんな」という概念から離れられないものには真の意味での美しさは宿らないのではないかなと思う。褒められている限りはほくほくできるが、それは一瞬ですぐに飽きる。

これが面倒くさいことに逆パターンもある。流行りが好きと言えないパターン。「みんな」から離れようとするばかりに、流行りの曲や服をけなしたりする。有名だからという否定もある。実際は有名だろうが、流行だろうが、メジャーだろうが、自分がそれを好きなら好きでいい。みんなに合わせたくない、普通でいたくないというパターンも結局は「みんな」から逃れられていない。

責任を引き受ける美しさ。

人は生きる上で経験を重ねていく。から、余計に環境によって影響されやすくなり、どんどん自分の「好き」がわからなくなってくる。これは人生に関わる。他人からよく思われたいという基準で動くと潰れる。お金持ちのほうがいいという刷り込みがあると、自分の身をすり減らしてでも金を稼ぎ年収をいかに高くするかというところに躍起になる。が、それは周りの評価が高くなるだけで、自分が幸せじゃない。年収が多少低くなったとしても、自分が本当にやりたい仕事があればそっちを選ぶこともできる。そうするとグンと道が広がる。

いかに自分が「いいな」と思ったほうに動き続けることができるか。どれだけ突き抜けられるか。よくわからない「みんな」から離れ、自分の感覚を信じられるか。「他がおかしい」と何かを否定するのは簡単だ。逆に、肯定するのは難しい。なぜ、難しいのか。多分、何かを肯定することは責任を引き受けるからだ。周りを否定することは誰にでもできる。それゆえ無責任だ。肯定をするには勇気がいる。自分がたとえ何ができないとしても、どれだけ自分を肯定できるか。何も持たない自分を肯定できるか。個人的にはツッコミよりもボケの時代だと思う。嫌味なツッコミなら誰にでもできるが、それをあえて笑いに転化することのできる人は希少だ。私は、ボケたい。ボケることで、責任を引き受けたい。あなたも私も同じですよという感覚なのかもしれない。それが美しさかなと思う。