ただ、あるがままにあれ。

文章にしちゃう時点で何もわかっていないということは薄々気付いているのだが、性懲りもなく文章にしちゃおうと思う。

最近、周囲すべてから見放された場合、人間ってどうなるんだろうと思ったりする。どんな家族も、どんな有名人も、自分に視線を送ってくれる人がいなくなれば、家族は家族でなくなり、有名人も有名人ではなくなる。

ただただ孤独が待ち受ける。そんな状態にある人間は、私が思うに、きっと絶望する。ある地位の人がそれなりに自信を持って発言をするのは、周りにそれを認めてくれる人があってのこと。どんなに自分が正しいと思ったことでも、一切、周りから無視されていれば、きっと発言するのはやめてしまうだろうと思う。

多分、人間は非常にひ弱な生き物だと思う。だからこそ思う。大切なのは、自分一人に深く満足することだと。

すべての問題は「受け入れ」さえすれば解決する。

私は正直、コミュニケーションが苦手なほうだと思う。ただ、コミュニケーションが苦手な自分が嫌いで、もっと人と上手に話せるようになりたいかと問われたら、別に、となる。

別段、多くの人と仲良くなりたいとは思っていない。どちらかというと広く浅くより、狭く深くだ。それを貫く上で、最悪、一人ぽっちになってしまったとしたら、それこそもう受け入れるしかない。

人は、大抵、どん底に落ちたときに何というか逆説的になるけれど、希望を見出だせるような気がするのだ。私も、今の自分を形作っているのは、子供のころの体験や記憶だと思う。暴力にひれ伏し、やりたくもないことをただひたすらにやらされていたこと。まさにこれ以上の底はないねというくらいの日々であった。そのおかげというと切ないけれど、絶望の中に希望を見出す術をなんとなく心に掴めているのではないかと思う。

受け入れるということ。多分、問題というのは自分が問題視しているから問題になるだけだ。特に、怒りや悲しみに支配されているときは、より問題に影響されやすくなる。反応してしまう。でも、そこで大事だなと思うのが、「受け入れる」ことだ。普段はどうってことないことも、体調が悪いというだけで嫌になってくることもあるけれど、受け入れてさえしまえばもうどうってことない。

飢餓があるのではない。空腹だけがある。

心の持ちよう。だいたいこれだ。時折、ラマナ・マハルシという覚者の名前を出すけれど、改めてマハルシの教えの中でいいなと思ったことを一つ紹介したい。

たしかマハルシにこんなことを質問した人がいた。「世界には飢えている子たちが多くいるというのに、どうしてあなたは坐ったままでいるのですか」的な質問だったと思う。それに対して、マハルシが「この世には飢餓があるのではない。あるのは空腹だけだ」と言った。私は痺れた。もうこのことについて掘り下げる必要はないなというくらいのまっすぐな言葉。

問題視する限り、飢餓がある。が、実際あるのは空腹のみ。ただそれだけだということ。何か問題があると人はわりとすぐに焦るが、実際、そこにある本当の問題は何なのか。実は自分の考えが邪魔をしているだけで、そこにあるのは実は問題でもなんでもないのではないか。

愛とは、人を対等に見ること。

孤独もそうだ。なぜか人は孤独を嫌がる。多分、寂しいからだ。でも、何かが引っかかる。違和感を覚える。なぜ、寂しいのか。なんか寂しい、だから紛らわしたいのか。

なんか変だな昔から思っていることがある。普通、愛と呼ばれるようなものについて。例えば、ある男とある女が30歳で結婚し愛し合っていたとする。が、60歳のある日、妻が病に倒れ他界をする。そしたら、残された夫はどう思うだろう。悲しみに暮れる日々を送るに違いない。90歳で死ぬとしたら、ヘタしたら死ぬまでの30年間を妻への想いに支配されながら生きるかもしれない。

何だろうか。この、好きと悲しみのセット感。これがどうも理解できない。人は結局、一人のままでもそれなりに生きていける。むしろ今の時代は金を蓄え、一人を愛し、日々を送る人も相当いる。そのほうが健全にさえ思える。一人のままの時代は必ずあったはずなのだ。どんな人も結婚するまでは恋人のいない期間があったはず。しかし、どこかのタイミングで愛する人を見つけてしまった。そして、愛が深いゆえに、失ったら途方もない悲しみが襲ってくる。

愛とはほとんどの人にとって、執着や依存なのではないかと思う。自分の心の欠けたピースを埋め合わせるためのもの。別に、人間でさえなくてもいいのかもしれない。人間でなくたって、同じように心の穴を埋めてくれるものがあれば、いくらでも代用できるからだ。普通、人は人と愛し合うのが健全だと思われているから、半ば自動的に恋愛し、セックスし、子供を生む。

果たして本物の愛とはどこにあるんだろうかと考える。個人的な見解に過ぎないけれど、多分、愛とは人を対等に見ることなのではないかなと思う。

ある人を愛し過ぎると、その人個人が失われたときに傷つく。が、すべての人を同じように、対等に見ていれば、ある個人を失うことはない。対象に自分を投影してしまうから、その対象が失われたとき、自分まで一緒くたになって落ちる。身内が死んだときに涙を流さないとおかしいと思われるかもしれない。愛してなかったのと周りに言われるかもしれない。が、悲しまないのは普通いいことなのではないか。心に穴が空いていないということだ。

孤独をごまかすために人と集う。

人の集いを楽しむ。こう書くとめちゃくちゃ普通のことのようにも思える。しかし、人の集いを楽しむのは、孤独を忌避し、寂しさをごまかすためだ。

その人自身が自分一人でいることに深く満足していれば、別に誰かと一緒にいる必要もない。一人で満足しているのに、誰かと会う必要もない。

一人でいることに満足している人は誰と会っても、多分、いい影響しか生まない。が、孤独を紛らわしたいがゆえに人に会う人は、相手を搾取する。利用する。孤独を癒やすために。

みんなと一緒にいて楽しい。これもこう書くと普通なことに思える。が、みんなと離れたらどうなるか。きっとまた寂しさに襲われる。だから、また人に会う。そして楽しいと錯覚する。実際は、楽しいのではなく、相手を利用しているだけだということに気付かない。から、また離れると乳を求める乳児のように心が泣く。

これを繰り返し続ける限り、死ぬ間際に人生に対して後悔するだろう。

個人の価値をいくら高めても、いずれ死ぬ。

人にはエゴがある。周りにチヤホヤされたり、人の集いの中にいることに意味を感じるということは、自分個人の価値が高まっているように感じられるからだ。しかし、実際のところ自分という人間は何も変わっていない。

チヤホヤされると自分の価値が高まったと勘違いしてしまう。自分は特別な人間だと思ってしまう。しかし、人を対等に見ることが愛だ。つまり、自分を人よりも優れていると思うということは愛ではないということになる。過剰な自尊心は、ただの差別と同じだ。

話のはじめにも書いた。人は、周囲すべてから見放された場合どうなるのだろうか。周りから認められ、自分は特別だと少しでも感じている人間が、もし、周囲すべてから見放されたら。その事態を受け入れることができるだろうか。もしも、受け入れることができたのなら、そこには問題がない。後は一人を謳歌することができる。

私が、三森正道という個人の価値を高めようとする限り、私は永遠に不幸だろう。その名前には実体がない。概念に過ぎない。概念がチヤホヤされているだけで、自分自身は全くすごくない。そこで私という個人がすごいとなると、優劣が生まれる。差別が生まれる。

どんな物事にも上には上がいる。どんなに裕福な暮らしをすることを自慢としていたとしても、必ず、自分以上に裕福な暮らしをしている人はいる。そこで競争すると終わりがない。ゆえにどんな物事も争えば終わりがない。戦争は永遠に続く。抜かされれば抜き返すからだ。

人は何かの分野で人よりスキルを身につけることで優位に立ちたがる。資格を取るのもそうだ。自分に価値を感じたい心の表れだ。その思いの根っこには、人よりも優れたいという思いがある。どんなに他人から認められているようなスキルを身につけていたとしても、どんなに人よりも優れている才能があっても、そこで優越感を覚えている限りは救われない。

どんなに自分個人の価値を高めることができたとしても、いずれ死ぬ。どんなに金を集めても、どんなに地位を固めても、いずれ死ぬ。いずれにしてもいずれ死ぬ。だとしたら、この有限性の中で何を見出すのか。それが不死性だろう。

ただ、あるがままにあれ。

不老不死という言葉があるが、身体を自分自身だと思っている限りは不老不死は実現しない。考えてみれば非常に簡単なことで、例えば、これから一兆年生きたとする。でも、一兆年後には死ぬのだ。ということは不老不死ではないということになる。仮に、地球滅亡が100億年後にあるとする。そこまで自分という個体が生き延びることができたとする。でも、地球が滅亡と同時に死ぬ。つまり、自分の身体を自分だと思っている限りは不老不死はあり得ない。

深い眠りの後、目が覚めたときに「よく寝た!」と思って起きることがある。つまり、身体が眠っている状態でも、気付いている「私」がいるということだ。どんなに深い眠りの中にあっても、人は目覚めに眠っていたということに気付いている。

個人というベールを外すと見えてくるのが、個人の自分ではない「私」だ。普通、私といえば個人を指すが、もっと根源的な私=意識がある。

多くの人は分離感を覚えながら過ごしている。枝分かれしている先についている葉っぱ。葉っぱと葉っぱ同士が自分のほうがより良い葉っぱだと言い争っている。が、実際、幹は繋がっているということ。

個人と身体はイコールだ。私の身体が消滅すれば、私という個人も消滅する。が、意識そのものはなくならない。葉っぱは枯れても、幹は残っている。葉が散り、新しい芽が息吹く。何度でも繰り返す。その源にエネルギーがあるからだ。

人生を豊かに生きるということは、物質的に豊かに生きるということでは決してない。この意識の根源の中に生きることこそが、人生を豊かに生きるということであり、孤独を、自分一人でいるということを愛するということだ。個人のままである限り、人は不幸なままだ。自分を身体だと思っている限り、分離感を覚え、寂しさや孤独に生きる。人は芽だ。花だ。木々だ。根っこにある意識のままにあること。これが人類への愛である。そこには本物の不死性がある。不滅の意識だ。

そこに在る人は光を生む。どんなに個人として平和を謳って活動をしている人を集めても、ただそこに在る人には死んでも敵わない。ただ在ることで、この世界に平和を生む人がいる。個人的には、そういう人たちがもっと認められる世の中になればいいなと願っている。無欲、無執着。思いにとらわれない価値は計り知れないということ。

生きているだけで、充分、恩恵を受けていることを忘れてはならない。循環しているエネルギーの中に生きているということ。思いに煩わされることは時間の無駄だ。過去にとらわれたり、過去に意味を見出そうとすることも時間の無駄だ。未来は予測不可能だ。予測不可能な未来を予測しても意味がない。予測不可能なら、その予測不可能性を愛すればいい。

すべてが今にあるということ。ただここに在るということ。この瞬間に生きること。在ることだけがこの世の真実だということ。孤独、退屈に目を向けること。外側にあるものなど五感情報に過ぎないということ。すべては内面にあるのだということ。思いは手放すこと。ただ、あるがままにあるということ。