善悪で物事を判断(ジャッジ)しないこと

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物事は9割方、捉え方次第で変わるものなのではないかなと思う。例えば、最もイメージしやすいのが天気だ。曇りや雨だと人はそれを「天気が悪い」と表現する。ポイントはここに「悪い」という言葉を使っていることだ。よく考えてみると、雨が降らなければ水不足になるし、作物も育たない。直射日光が強い日に太陽の雲が重なると街全体が日陰になって涼しさを覚える時もある。

たしかに豪雨が降れば土砂災害の可能性もある。が、それは状況によりけりと言ったところではないだろうか。決して、雨が降ることは悪いことではない。ずっと燦々と太陽が照り続ける日々も悪くはないだろうけれども、雨の日があるからこそパッと晴れた日がやってくると心もうきうきする。

何より、とあることを「悪いこと」だと決め付けてしまうのはだいぶ視野を狭くする。物事は捉え方次第で変わると書いたが、例えば、犯罪などもそうではないだろうか。例えば、万引きをした子は悪い子だと決め付けてしまうのは早くないだろうか。よくコンビニに行くと「万引きは犯罪です」と書いてある。それはそうなのだろうが、もしも親から「万引きをしてこい」と命令をされて悪意もなく罪悪感もなくただ純粋に従った子は果たして「悪い子」になるだろうか。

一方的な決め付けは良くない。何度も言うけれど、私は、「〇〇をしたから絶対に悪い」という解釈には少し危険性が帯びていると思う。

善悪のジャッジは生き辛さを生む

うちの父はてんかんという病気を19歳ごろに発症した。

母から聞いた話では、運転中に初めての発作が起こり、そのまま電柱に衝突したらしい。

それから父は薬を飲んでいれば発作が起こることは避けられるものの、仕事中などに薬を飲む余裕がなかったり、忘れたりした時は、発作が起きてしまうようになり、それを原因に仕事をクビになることを繰り返したという。

仕事も続かなくなり、結果的に生活保護になった。多分、捉え方によっては生活保護と聞くと、「税金で楽をしやがって」と思う人もいるかもしれない。ちなみに私の伯母はうつ病で現在進行形で生活保護を貰いながら生きている。

よくニュースで聞く不正受給とは別で、病気だから生保を貰っている。これに対して、「甘えるな」「楽をして生きてる」と言う人がいる。

うちの父はどうだったのかはわからないが、私自身「何もしないままで生きるということ」がどれだけ息苦しいのかは知っているつもりだ。俗に聞く、平日、街を歩いているだけで疎外感を覚えるという現象と友達の時期もあった。これが案外辛い。自分は社会の役に立てないという焦りや失望感が襲ってくる。病気を患った人なら、「もしも健康体だったらもっと人生を謳歌できたはずだ」という思いを持っている人は少なからずいるのではないだろうか。楽をして生きてるなんていうのはその人がそう判断しているに過ぎない。実際は様々な事情があり、一概になんて言えるはずもないのだ。

安易に、「〇〇だからだめ」「〇〇だから良い」とレッテルを貼ることは危険だ。無職だからだめ、生活保護を貰っているからだめ。そういう価値観のままでいると、結果的に自分自身が無職になった場合、生活保護を貰った場合にどんな気持ちになるだろう。大切なことは、他人に対して負のレッテルを貼ることではなく、どうして〇〇は悪いことだと決め付けてしまっているのかを考えてみることではないだろうか。まともに働かないことを悪だと見なし反応すれば自分も消耗するし相手も傷つく。そしてもしも自分も働けなくなったとき自分の価値観が自分を苦しめることになるだろう。そんなんじゃめちゃくちゃ生きにくい。

善悪で物事を区別することは生き辛さを生む。すべては一緒くたにできない背景があり判断(ジャッジ)できないということを知り、決めつけないこと。個人的に、物事をジャッジしないようになってからはだいぶ生きやすさを覚えることも多くなった。

善悪の刃

私は、10代は丸ごと引きこもりだった。案の定、お供はネット。生まれてこの方、教育を受けたこともなかったので、このインターネットを通して、漢字を読めるようになった。

10代というのは最も周りに影響されやすいお年頃と言っても過言ではない。私はわかりやすくネットの言葉に影響されていった。実質、中卒なので、中卒をバカにするようなセリフを見るとショックだった。

今でも覚えていることがある。前にあるゲームサイトに入り浸っていたことがあった。そこで、あるアバターのプロフィールの項目に「学歴なし」と書いている子がいた。私はまだまだ純粋な15歳くらいだったので、「もしかして自分と同じような人か!」と鵜呑みにして、頑張ってメッセージを送ってみたことがある。

うろ覚えだけども、たしか「私も学校に一度も行ったことがありません。小学校も行ったことがないです。もしよかったらお友達になりませんか」みたいな文章を送ったような気がする。

すぐにメッセージが返ってきた。その内容には、「学校に行ったことないヤツなんて無理w」というようなことが書かれていた。

ショックだった。当時の自分は勘違いをしたのだ。「学歴なし」と書かれているからといって、一度も学校には行ったことがないという意味ではなかったのだ。

人との繋がりを求める中でこういう出来事が起こると自分も自分自身に「誰にも理解されない存在」という判断(ジャッジ)を下してしまう。

ジャッジはジャッジを生む。知りもしない相手を裁くということが何故出来るのだろうか。人が人を裁くことが出来るのだろうか。

争うことの無意味さ

10代後半ではネットで韓国に対しての罵詈雑言をよく見かけた。多分、何かしらのライバル関係があるのかもしれないが、例によってそれに影響された私は、ネットでみんなが悪く言っているからという理由で韓国を毛嫌いしていた時期があった。

引きこもりだった自分は当然の如く韓国人の知り合いもいなければ、韓国に行ったことさえない。その国について民族性みたいなものについて何も知らない。もし誰かが言うことに事実があったとしても、私は自分の目でリアルを見たことがない。それなのに、父親の代わりに憎しみの焦点を見つけたレベルには敵対視していた。

ある日、ネットで韓国の悪口記事みたいなものを読むのが嫌になり、とにかく2ちゃんねる的なものから距離を置こうと決めた。

そしたら、月日が流れるにつれ、憎しみや敵対視みたいな怨念が消えていった。いつしか何にも気にしなくなった。私はサッカーが好きなので、よく韓国と日本はライバルだと宣伝されているけれど、むしろそういうのが嫌いになり、日韓戦みたいなものは逆に遠ざけるようになってしまった。無闇に争うことが無意味に思えたからだ。

今はもう落ち着いた。むしろ今では物事がフラットに見えているという感覚がある。2ちゃんねるを見ても平気になった。価値観を変えることが無理そうなら、思い切って距離を取ってみるパターンもあるのだなと数年かけて気付いたのだった。多分、自分というものが確立されていなかったので、何かを憎むという行為を通じてアイデンティティーを獲得しようと無意識に思っていたのかもしれない。モノに同一化しても長くは続かない。そういう教訓を得られたのは大きかった。

蛇足だけど、この前カフェにいたら、隣の席に座っていた二人組の女子中学生らしき子の一人が、「韓国人ってみんな同じ顔してるよねw」と小馬鹿にしたような口調で言っていて、なんというか少し「おふぅ」という気持ちになった。この子たちはネットに影響されているのかもしれない。人を括ってみるということはなんとも悲しいものがある。しかし昔の自分だったら同調していたかもしれない。見方が変わると、これほどまでに感じ方も変わるものなのかと悟った瞬間であった。

 

善悪で物事や人を判断することや区別することは優越感や悲しみを生む危険性があるものだと思うしその人自身を見えなくしてしまう。

物事にある背景は人それぞれで、人の個性と一緒でグラデーションの世界だ。すべてのものは一概に言えるものでない。理解する前にする判断なんて虚像でしかない。

物事の印象というのは強烈で完璧に外すのは難しい。でも、だからこそ私は自分の持ってるジャッジを外して目の前の人やモノを視ることを大切にしていきたい。