感情の反応の中にある深い想い

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知人がつい先日電車内で「働いたら負け」という文字がでっかく書かれたTシャツを着ている二人組の男を見たという。私は相も変わらずそれを聞いて「いいね」と思った。続いて知人はこう言った。「その二人組の横にあからさまに疲れたサラリーマンであろうおじさんが爆睡していて、もしその人がそのTシャツの言葉を見たらなんと思うのだろう」。

私はおじさんがなんと思うかまではわからないけれど、そのおじさんにかけてあげたい言葉はある。「疲れたら休めばいい」と。とにかく眠たいときは基本的に何をやってもあんまり事がいいほうへは運ばないと思う。今日はだめっぽいなと思ったら休む。そうすると如実に体力が回復するから不思議だ。どうして人は寝たら回復するのだろう。

前回の記事では書きたいことが山ほどあったけど、全部書いたらまとまりがなくなりそうなので、また新たにこの記事を書くことにした。

大切なのは体験を通じて気付きを得ること

私は働いたら負けという言葉にある程度共感を示すくらいには働いたことがない。そして、そんな自分のことを責めてもいない。見る人から見たらバシッと説教を食らってもおかしくはないのだが、そもそもで滅多に人前には顔を出さないので、お説教をいただく機会もない。

行動欲みたいなものがまるでないんだと思う。人が嫌いかと聞かれたらそんなことはないと答えるし、日々ヒキニートのような生活を送っていてもまるで罪悪感は湧かない。人並みには危機感や焦りみたいなものは持っているようにも思うけど、実際のところはのほほんとした日々を送っている。

思えばここ一年でも自分は急激に成長したと思えるところがある。昔の自分ではちょっと想像できないくらいに何かに感情的に反応することがめっきり減ったのだ。

ほんの一年前でも、外を歩けばすれ違う人たちに対して警戒心マックスだったし、カフェにいれば自分の周りに座っている人が気になって仕方なかった。今は下手したら周囲の人よりも自分のほうが気にしていないんじゃないかとさえ思うくらいには周りのことが気にならなくなってきた。

完全に物事に反応しなくなったとは到底言えないけれど、それでもある時期と比べるとかなり反応しなくなったのだ。「すごいな俺!」と多少でも褒めてやりたくなる(最近自分を褒めるようにしている)。そのくらい「これが成長か!」という実感がある。

多分、大切なのは行動することではない。もちろん行動することも大切だと思う。しかし、もっと大切なことは行動を通じて体験したことから気付きを得ることだと思う。

反応の源を捜せ

物事に対して感情的な反応をしなくなる、ということが私にとって成長の指針だ。成長とは、物事に反応しなくなっていくことだと思う。

私は事あるごとに反応しては苛立っていることが多かった。その度に人に話を聞いてもらったりもした。その甲斐もあってか、一昔前と比べると本当にいい意味で鈍くなったと思う。

しかし、それでもまだ余裕で感情が反応することはある。いかに昔がひどかったのかという話は置いておいて、そんな状態でいることはめちゃくちゃ生きづらいのだ。過剰に周りに対して反応を繰り返していると激烈に消耗する。

突然だけども、こんな私にも良いところの一つや二つあると思っている。例えば、私は自分と向き合うことを恐れない。(自分を褒めていくスタイル)

私が自分に対して「このままじゃだめだ!」と思う時は、他人と比較して劣っているからもっと競争しようという意味ではなく、自分の中の過剰に反応する部分を打ち消す作業をしなければいけないという意味に近い。

その打ち消す作業の行程の中で、行動だったり体験だったり気付きだったりがある。行動を行動のまま終わらせたくはないし、自分にとって有意義だと思える体験があったのならば、そこから絶対に気付きを得たいと思う。私はこの意識の持ち方を「向上心がある(意識が高い)」という風にとらえている。

自分の感情が何について反応をしているかを解明しない限り、これからを生きる上で必ずその反応は繰り返し目の前に立ちふさがる。

例えば、以前の自分はニート扱いされるのが本当にいやで、何かそれにまつわることを指摘された時は、多分、取り乱すくらい怒っていた。にもかかわらず、今は自分が働いていないことに対するコンプレックスみたいなのが消滅し、そもそもで働く働かないということについてあまり深刻に考えることがなくなった。(良いか悪いかは別にして)

俺は間違っていなかった

自分の感情が何に反応をしているのか。それを深いところまで掘り下げる。すると何かしらの気付きがある。俺は自分が否定されるようなことを言われるのが大嫌いだとか、自分と向き合っているとそういうことがわかってくる。

昨日はこんなことを考えていた。自分は親に愛されなかった。愛されなかったどころかべらぼうに否定をされ続けて育った。だから俺は否定をされるのが嫌なんだ。これ以上否定をされて何の意味がある?

人間みんなで生きているじゃないかと思う。誰も自分一人の力で生きていないじゃないかと。それならもっと肯定をし合って生きていけないのかと。

私は散々否定をされ続けてきたからこそ肯定をされたいと強く思っている。愛されてこなかったからこそ強く愛されたいと思う。自分は孤独であることはそれほど望んではいない。

今まで自分の本当の気持ちがわからなかったから言えなかっただけで、本当は愛されたくて愛されたくて仕方ないし、肯定され勇気付けられたいし、もっともっと褒められたい。そうした自分の深いところに眠っている想いに対して今まで気付いてやれなかった。

最近は自分の想いを人に素直に伝えられるようになった。自分の想いを素直に伝えていると、自分が出した想いの分だけ、相手も想いを吐露してくれるという実感がある。

想いを伝え合っていると、相手との会話の中で、「そうか、自分はこんなことを想い望んでいたのか」ということに気付く。自分と向き合い、人と向き合う。その中で自分は徐々にだけど、物事に対してそれほど反応をしなくなってきた。

あえて言うと恥ずかしいけれど、俺は間違っていなかったと思う。正しいかはわからないけれど、俺のやってきたことに間違いはなかったと思う。

深い想いを伝えよう

素直に深いところにある本当の気持ちを伝えることが結果的に自分のためになると思う。ひとと心を通い合わせることで見えてくるものもある。

この記事で書いた「反応」というテーマについては、こればかりは本当に全人類の悩みと言っても過言ではないと思う。

自分を掘り下げ、感情の反応の源を捜し、そこで得た気付きには何にも代えがたい価値がある。

これからも自分自身が気付いたことがあれば、恥ずかしがらずに自分の言葉で出していきたい。そう思う。